地名「杤木」の「初出文書」を携えて越前に赴いた皆川旧臣のはなし

 「栃木」(とちぎ)という地名の由来については、様々な伝承があることが知られています。有名どころとしては、神明宮(現栃木市旭町)が神明宿(現栃木市神田町)にあったころ(1403年~1589年)社殿の屋根にある千木(ちぎ)が遠くから見ると10本に見えたことから、神社周辺を「十千木(とおちぎ)」=「とちぎ」と呼ぶようになったという説があります。歴史的に根拠がある説とは思えませんが、栃木の歴史に興味を持ってもらうためのきっかけとして、観光ボランティアの方々が観光客などに紹介しているようです。
 さて、伝承はともかく、歴史研究においては、ある言葉や概念などが、文献史料に最初に登場すること、またはその登場箇所(文書)を「初出」といい、研究者は大変重視しています。
 では、文献上で、「栃木」という地名が確認できるのはいつ頃からなのでしょうか。
 かつては、鎌倉時代の「吾妻鏡」正嘉2年(1258年)7月10日条に「相論下野国栃木郷事」と見えることから、それを「初出」とする説がありました。しかし、この「相論」(領地等をめぐる訴訟)の当事者の一人が佐野阿曽沼氏の者であることから、現在ではこの「栃木郷」は「栃本郷」(現佐野市田沼町)の誤記と推定されています。(角川日本地名大辞典9栃木県)
 最近では、「毛利家文書」(1585年~1590年頃作成と推定)に城の名前のひとつとして「とちぎ」という言葉が出てくるので、これが初出だという関係者もいます。

 先般、私が中世の大規模荘園「中泉荘」について、文献資料を調べていたところ、「明応元年(1492年)9月23日付け小山成長(しげなが)文書」に「栃木」という文字があるのを偶然に見つけました。この文書は、藤岡町史資料編や鹿沼市史資料編にも掲載されているので、既に知られている文書だと思いますが、あまり着目されてはこなかったのでしょうか。その文書は彦根城博物館井伊家文書に所蔵されているというので、さっそく原本の写しを取り寄せたところ、思ったとおり、原本には、雁垂(がんだれ)のない「杤木」の文字が使われていました。

(彦根城博物館所蔵 井伊家文書)

 この文書は、明応元年(1492年)当時、小山氏当主であった小山成長(しげなが)が、家臣の早乙目氏に対し軍忠を賞し公事免除を言い渡したもので、そのなかに「下野国中泉庄杤木 早乙目屋敷」と記されています。私は、この「杤木」という地名の記載は、おそらく、現在のところ一次史料として確認できる「杤木(=栃木)」という地名の「初出」ではないかと考えています。この文書の存在により、神明宮の社殿由来の「十千木説」が完全に否定されるというものではありません。
 ちなみに、「杤」という字は、中国由来の「漢字」ではなく、日本でつくられた「国字」と言われるものです。漢字のトチの字は「橡」と書きますが、国字のトチの字は「杤」または「栃」と書きます。明治4年(1871年)11月14日栃木県成立の文書には「杤木懸」と記されています。栃木県成立当時は、「杤木」と「栃木」の両方が公に使用されていましたが、県名文字の統一を図るため、明治12年(1879年)4月11日に栃木県令鍋島幹(なべしま みき)が、雁垂れのついた「栃」の字使用に統一する旨の通達を出した経緯があり、今日の「栃」の字の使用に至っています。
 さて、小山成長の文書が、なぜ井伊家文書にあるのか、興味がわいて、さらに調べてみました。この文書は、彦根藩士「佐乙女八郎左衛門家」の記述にあります。それによれば、初代佐乙女与次右衛門は当初、結城秀康(越前松平家)の子・松平直政の家中にあったが、浪人となり、後を継いだ二代目重広の時に井伊家に仕えた、とされています。 
 このことから、天正18年の小田原開城・降伏、秀吉の宇都宮仕置により、北条勢力下の下野国旧小山領・壬生領内に存在する領地は、すべて結城秀康に引き継がれたことに伴い、早乙目(=佐乙女:以下「早乙目」と統一表記)氏は結城秀康の家臣となり、その後、秀康の越前移封に伴い、先祖家伝来の文書を携えて越前に赴いた。その後、早乙目氏は秀康の子で結城家を継いだ松平直政に仕えることになった、というおおよその経緯が推察できます。
 この、早乙目氏とは、一体何者なのだろうか。私は調べていくうちに、鹿沼市史資料編336ページに興味深い文書があることを見つけました。
 天正8年9月15日と明記されている「早乙女掃部宛皆川広照書状写」です。この文書は、館林長尾氏攻めでの戦功を賞し、皆川廣照が早乙女掃部に官途を与えたものです。この書状も彦根城博物館所蔵になっており文書の出所は同じです。ということは、先ほど述べたとおり、結城秀康に従って越前まで赴いた早乙目氏は、明応元年(1492年)のころは小山氏に属していましたが、約90年後の天正8年(1580年)ころは、なんと皆川氏の家臣団の一員になっていたことが推定できます。
この早乙目氏については、興味がつきないので、追ってさらに深堀をしてみようと考えています。                              

20251028 小林記

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