本日(令和7年10月28日)、栃木市主催「文化講座」で宇都宮短期大学教授 江田郁夫先生の「皆川氏と皆川城・栃木城」という演題の講演会を聴いてきました。
江田先生は、栃木市作成のパンフにある栃木城は「天正19(1591年)に新しく築城」という文言(天正19年築城説)は明確に否定されましたが、一方で、私にとっては、非常にショッキングな先生の見解を聴きました。
それは、栃木城の築城時期とその理由についてです。これについて、先生は可能性として二つの見解を示されました。
① 栃木城は、粟志川(淡志川=大宮)城の廃城(1575年)に伴って、1579年ごろに築城開始されたものである。並行して円通寺を宿河原に移転し、栃木城の南側の防衛拠点とした。
② 天正12年(1584年)以降は、北条氏勢力の急伸長にともない栃木城を整備し、宿河原の町場を栃木(現在の栃木市中心街)に移して整備した。
栃木城の築城時期については、2年前の江田先生講演では、天正12年の広照書状を基に、「天正12年(1584年)以降」の説をとっていましたが、今日の講演では、それを否定はしませんでしたが、築城開始は、それ以前の「1579年」頃に遡る見解を示したということです。「1579年説」の根拠は、円通寺が川連から現在地・城内町に移転したのが1579年であったという伝承を重視した考え方です。しかも、その背景には、小山氏が拠点としていた粟志川(淡志川=大宮)城が1573年に北条氏に攻め取られ、廃城になったことにより、栃木に出城を造りやすくなったことを強調されていました。粟志川城の廃城を契機として、皆川氏は巴波川の左岸(東側)まで進出したということらしい。

以前、私の個人的見解で示した粟志川城と栃木城の関係では、広照の栃木城築城は、北条方の粟志川城(北条方の城)の存在を意識して、赤渕川湿地帯を挟んで粟志川城に対峙する位置に、防御のための城を築こうとした、と申し述べましたが、江田先生いわく、粟志川城は、1573年に北条氏が小山氏から攻め取った後は廃城になった可能性が高いとし、粟志川が廃城になったからこそ、広照は巴波川左岸の境界域に新しい城を築くことができる情勢となった、とおっしゃっていました。
もうひとつのショッキングな江田先生の見解は、現在の栃木市市街地発展の原点は、実は、広照の栃木城の築城前に、現在の栃木市城内町円通寺一帯に「宿河原村」があり、その成立は、室町中期以前にさかのぼる可能性がある、としたうえで、広照の栃木城は、境界防衛と宿河原の町場の保護のために新たに築城されたもの、としていることです。さらに、広照は、宿河原にあった町場のさらなる発展のために、栃木城の西側に町場を移転・整備し、それが現在の「蔵の街」へつながった、というのです。
歴史って知れば知るほど深いですね。深みにはまってしまいます。驚きました。栃木城築城前に、現在の城内町の南部一帯に宿河原村がそこのあったということ、まったく意識していませんでした。反省します。
20251029 小林記